金沢北条氏四将像

金沢北条氏四将像

国宝を訪ねて

国宝「金沢北条氏四将像」は、金沢北条氏4代を描いた肖像画です。金沢北条氏は、鎌倉時代に執権を独占した北条氏の分家で、学問の家柄として知られました。

実質的な初代である北条実時(さねとき)は、学問に秀でた人物として知られ、執権・北条時宗の補佐など、幕府の要職を歴任しました。隠居後は金沢で過ごしていたため、蔵書も金沢に移され、文庫の基礎が作られたと考えられています。金沢には館や菩提寺(称名寺)が整えられ、金沢を本拠としたことから、後世、金沢北条氏と呼ばれるようになりました。

北条顕時(あきとき)は、北条実時の息子で、同じく学問を好みました。義理の父である安達泰盛が霜月騒動で粛清されると、しばらくは謹慎の身となりますが、執権・北条貞時の厚い信任を得て、金沢北条氏は全盛期を迎えます。

金沢貞顕(さだあき)は、北条顕時の息子で、執権まで務めた人物です。貞顕は、父・顕時の後を継ぐと、六波羅探題南方となり、幕府の京都における政務を取り仕切りました。鎌倉に戻ってからは、引付頭人や寄合衆を務め、北条一門と幕府の中で重きをなしていたと考えられています。やがて執権の後継者争いの中で、中継ぎとしてではありますが、執権に就任します。ところが、これに反対する人々が出家したり、暗殺の噂も立ったため、たったの10日で執権を辞職してしまいました。その後は出家して息子達の栄達を楽しみにしていましたが、最期は新田義貞に攻められ、他の北条氏一門とともに東勝寺で自刃しました。ちなみに、明確な史料はありませんが、金沢文庫を創建したのは貞顕であるとも言われています。

金沢貞将(さだゆき)は、貞顕の息子で、壮絶な最期を遂げました。父の後を継いで評定衆や引付頭人などを歴任します。新田義貞が反旗を翻すと、幕府軍の大将として戦いますが、激しい戦いの中で兵力は減少し、得宗・北条高時に最期の挨拶を済ませると、これまでの忠義を賞され、「私の百年の命を捨てて高時公の一日の恩に報いましょう」と大書して、一族もろとも大軍に突撃して討ち死にしました。

この4人を描いた国宝「金沢北条氏四将像」は、数年に一度くらいしか公開されません。この国宝を観るため、金沢文庫に向かいました。金沢文庫駅からは歩いて行ける距離ですが、行きは登り坂なので、バスがオススメです。駅前からバスに乗り、称名寺停留所で降りて、称名寺境内からトンネルを通って金沢文庫に向かいます。

称名寺境内

特別展「至高の宝蔵」の展示室に入ると、最初に4幅が並べて展示されていました。サイズは顕時像が少し小さい印象ですが、普通です。神護寺三像のサイズがいかに特異かが分かります。退色していて見づらいところもありますが、貴重な4幅を一度に観られてよかったです。

ここがすごい

この国宝は、金沢北条氏4代の肖像画がすべて揃っており、しかもどれも生前から没後すぐの時期に描かれている点、迫真性が貴重です。それぞれの人物の一生と重ね合わせながら観ると感慨深いです。

北条実時像は、隠居後の法体姿で、キビキビとした運筆で描かれています。

北条顕時像は、細線を重ねる似絵の技法によって描かれています。指貫(はかま)姿に改変された形跡があります。

金沢貞顕像は、前の2人と違い俗体像です。執権を辞職した後に出家するので、それ以前の姿と考えられます。きらびやかな画風で、武家肖像として完成された形式です。

金沢貞将像は、顔に朱を施して現実感を強調しています。

この国宝を見るには

  • 称名寺の所蔵ですが、神奈川県立金沢文庫が管理していて、同文庫の展示などで見られます。
  • 撮影:金沢文庫の展示は撮影不可です。

参考文献

  • 国宝事典
  • 図録

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